随想:エッセイ

音楽が終わる前に 1
シオン

街の中に一人でいるときは、歩いているときもコーヒー店にいるときも、私はいつもウォークマンでロックンロールを聴いている。生活から離れられる時間をそれでいくらか確保できるし、雑多な音や人の話し声が遠くなるので、もの想いにふけることも考え事に集中することもできる。ロックンロール越しの街は、熱気も生気も薄くなって私にはしのぎやすい。

ある十二月の夕方、食料品で重い買物袋を両手にぶらさげ、私は新宿の地下街を家に向かって歩いていた。地下街はたくさんの人たちが反対方向に二つの大きな流れをつくって歩いている。ウォークマンから聴こえてくるジョージア・サテライツのロックンロールに心をまかせていると、行き交うたくさんの人たちも、店に並べられたたくさんの商品も、みんな映画のスクリーンの中にあるように思えてくる。
人の流れにのって地下街の階段をおりていったとき、反対の流れの前方二〇メートルくらいのところに、あたりとまるで異質な気配を感じた。それはスクリーンをベリベリッと破っていきなり出現した。グワッと大きく出現した。
華やかな刺繍がほどこしてある丈の長い青いニットのジャケットをふわりとはおって、髪は肩までのびている。そして、ショー・ウィンドーに目をやりながら、人の流れにのってゆるやかに漂うように、こちらにむかってくる。
シオンだった。

私は階段で立ちどまって、すぐにウォークマンのヘッドホンをはずした。人の流れが私の両側を流れていく。
シオンはものすごくリアルだった。ものすごい存在感だった。私は呆然としていた。
シオンは人の流れにのって、階段と並行しているエスカレーターにのってあがってくる。私は階段で立ちどまったまま、視界から消えるまでずっとシオンを見ていた。
シオンが見えなくなって、私は階段をおりはじめた。しあわせだった。

階段をおりてしばらく行ったとき、ショルダー・バッグにチラシを何号か入れてあることを思い出し、バッグからチラシを3号分とり出した。そして、おりたばかりの階段まで走った。左上方にちょうどエスカレーターからおりるシオンの後ろ姿が見えた。私は階段を一気にかけあがってシオンに追いつき声をかけた。
「これ、読んで下さい」。チラシを手わたす。「えっ?」という表情でシオンが手にしたチラシに目をやっているすきに、そばを離れた。後ろをふりむかなかった。

いそいで階段をおりながら「この世というものは崇高なものをせんさくし、輝くものを手にもとうとするものです」というバイエルンのルードヴィヒUがワーグナーにあてた手紙に書いたことばが頭にうかんできた。自分のやったことがそんな感じがした。
ステージの上ではないのに、あれほど崇高(きれい)で輝いているシオンに手を触れたのだから。そう思ったら心がひえた。

崇高なものは手を触れたらその輝きが失われるからと、そうすることを自分に禁じているのに、どうして?と自分に問いかけた。そして、いや、あのとき私がいたのはこの世ではない。こうして魚や野菜でいっぱいの、冬至のためのゆずとかぼちゃも入っていっぱいの買い物袋を両手に、家路についていた、生活の中の私の肉体(からだ)がシオンに近づいていったのではなく、近づいていったのは、ジョージア・サテライツのロックンロールを聴きながら、生活から離れこの世ではないところにいた私の魂(こころ)なのだ。
あのときのシオンは、私にはこの世の時間の中にいる人間とは思えなかった。あれほど崇高(きれい)で、輝いていて、リアルなシオンから一片の生活も感じとらなかった。と、考えついたら心に血が通ってきて、ほっと安堵の息をついた。そして、ウォークマンのヘッドフォンをはめた。ずうっとまわりっぱなしになっていたジョージア・サテライツのロックンロールが聴こえてきた。

 今年の四月二八日。渋谷公会堂のシオンのライブに行った。骨折した右手を吊ったまま、左手でマイクをにぎり、襤褸(ぼろ)に見えるような服を着て歌うシオン
は、崇高(きれい)で輝いていた。歌が上空からシオンの肉体(からだ)に静かに降りてきて、シオンに歌わせているような感じがした。その歌はどれも、私のこの世での生活を消し去ってくれた。私は、その輝くシオンに、輝く歌にうたれた。

「冬の街はなぜか一人歩くのが似合うから 冬の街は誰かそっと見てるよな気がするから 光あるものが色あせるのはいつも こんな夜さベイビイ」

この歌は、あの十二月の夕方、新宿の地下街で私におこった出来事と不思議な暗合をしている。
「心がうすら寒いのは、どこかに生活(くらし)を置き忘れてきたせい」と歌うシオンに私は心の中で問いかける。シオンの歌っている。そういう生活の中にいる私だって心がうすら寒い日々を送っているんだけれど、と。
心がうすら寒いのは、生活があるなしにかかわりなく、この世の時間に安住できないせいなのだ。この世の時間の中では「生きている」実感をもてないせいなのだ。生活感が消えたときしか「生きている」と感じられないせいなのだ。だから、街の中に一人でいるときは、私はいつもウォークマンでロックンロールを聴いている。ロックンロール越しの街はしのぎやすい。私におこったあのシオンとの出会いから二年半たった現在(いま)でも、それは変わらない。

「ガレージ・ランド」 Vol.2