随想:エッセイ

音楽が終わる前に 4

マンガンズ 『天国の扉』

「俺の仕事はすごく汚ない。汚ないものって必ずあるものなのに、自分のところにさえなければいいっていうのありますよね。ディズニー・ランドだってそうでしょう。汚いものが目にふれないようにしてる。人がたくさんいれば汚いものって必ず出るのに。俺、すごく汚い格好でそのまま仕事から帰るんですけど、山谷に行くとそれでもふつうなんですから。山谷とかって、美しいもののしわよせって感じ。新宿にいるホームレスはまだ少ないから、ふつうの人を気にしてるかもしれませんけど、山谷じゃ普通の人の方が珍しい。でも、あの人たちって明るいんですよね。明日のことを思いわずらうことがないからかと思うんですけど、四十万でも五十万でも二日で使っちゃう。現場で十時になると一服する、親方がジュースを買ってくるように千円わたすでしょ。それ持って逃げちゃう。一日働けば一万円になるのに、目の前の千円の方がつよいんですね。あの人たち、同情されるのはいちばんいやでしょうね。俺も仕事やってて『汚くて大変ですね』っていわれるのいやですから。俺は好きでやってるんですから。俺、ホームレスやりたいんですよね。だけどそれ嘘なんですよ。ホームレスになった人たちとはちがう。嘘なんです。だけどやりたい」

 夏のある土曜日の夜。新宿駅東口。アルタのそば。線路下にある東口と西口をつなぐ通路をはさんだ歩道の、壁に映画や演劇やテレビ番組の大きな看板がかかっている、その看板の下の一角がその夜のマンガンズのライブ会場である。
八時半をまわったころ、バンドのメンバーたちがやってきて、車から機材や楽器を運び出し、路上にセッティングをはじめる。Tシャツにジーンズのヴォーカルがそこに置かれたアンプに腰をかけ、遠くを見るような目をしてゆっくりと煙草を吸っている。

「おふくろが茶碗を使わないでとってあるんですよ。『使えばいいのに』っていうと『使って割れるといやだから』って。だけど茶碗って、つかわなかったら茶碗じゃないじゃないですか。使って割れるんならいいじゃないですか。俺は自分を全部使って、それで死ぬんならいいと思っている。自分を使わないで生きていたって…」

ギター、ベース、ドラムがそれぞれ音を出しはじめ、ヴォーカルもマイクのチェックをはじめる。前を通る人たちの流れがその音でせきとめられたようになっていく。そうして歩道がステージになり、足をとめた人たちがバンドをとりかこんで、そこが客席になる。リハーサルが終わり、ヴォー
カルがTシャツとブーツをぬぎすて、頭に白いタオルをまき、上半身裸に裸足でマイクにかじりつく。ギター、ベース、ドラムの音が一斉に出て、「やりたーい、やりたーい」と歌がはじまる。

YARITAI  

やりたい やりたい やりたい やりたい
おふくろの腹の中からさかさまに産まれた
昨日のことのようだぜ

やりたい やりたい やりたい やりたい
悪魔に会ったら伝えろ 俺も明日を信じない
馬鹿は死んでも治らねぇ

やりたい やりたい やりたい やりたい
獣(ケダモノ)のように愛しておくれでないかい

やりたい やりたい やりたい やりたい
ブルースはだれにも止められない
こうなりゃだれにも止められないぜ
死ぬまでどうにか生きてるぜ

やりたい やりたい やりたい やりたい
感じる 感じる
脱がせても脱がせても裸になれない女
剥がれても剥がれても化粧をぬりたくる女

感じる 感じる 感じる 感じる
獣の涙 獣のように 獣の涙
獣のように愛しておくれでないかい
やりたい やりたい やりたい やりたい

 コリン・ウィルソンは「至高体験」の序論に「至高体験者とは、用意のエネルギー・タンクに大量のエネルギーを備えている人びとのことである。退屈した惨めな人びととは、即座に用いるエネルギーを少量しか保てない人びとである」と書いているが、退屈した惨めな人たちが毎夜毎夜、新宿歌舞伎町を埋めつくしている。そこには、いくらかの金をだせば一時(イットキ)退屈と惨めさを忘れられる仕掛けができている。そんな人たちが通りがかりにいきなりこんな歌を聞いたら、上半身裸で裸足の男が路上でマイクをふりまわし、叫ぶように歌うのを見たら、いったいどうなるのだろう?ギョッとするか、目をそむけるのか、気にもとめないのか。
バンドはそんなことには一切おかまいなしに自分たちの音楽を容赦なく叩き出していく。

 「前にライブに来た男がいて、そいつ、はじまる前は『フン』っていう感じだったんですけどね、ライブの後『やー、よかったよ』っていって、もうずっと前からの知り合いみたいな態度なんですよね。たった三十分のライブでも言葉にならないものが伝わるんですよ。言葉にならないものってあるんです、絶対に」

 ステージをすこし遠まきにした人たちは多くなったり少なくなったりはしても、とぎれることがない。ステージ、といっても客席との間に目に見える境があるわけではなく同じ道路の上なのだが、に近づいてカメラをむける人もいる。二十分ほどの休憩時間に、どこかのタウン新聞の記者らしい人がメンバーたちに話をきいたりしている。
歩道にすわりこんで体で拍子をとりながら、ずうっと聞いている人は、もしかしたら「言葉にならないもの」を感じとっているのかもしれない。

スロー・アンド・スロー  

 長い長い道が見える
きついきつい旅がある
スロー・アンド・スロー
スロー・アンド・スロー

じりじりじりじり俺を焼く
だらりだらり汗が落ちる
スロー・アンド・スロー
スロー・アンド・スロー

すべてをゆるせるときがある

ゆっくりゆっくり落ちていく紅よ
ふり返れば俺の影が笑ってる
スロー・アンド・スロー
スロー・アンド・スロー

すべてをゆるせるときがある

さぁベィビィさぁ歩き出せ
さぁベィビィさぁ歩き出せ
さぁベィビィさぁ歩き出せ

おまえがころんでも
おいらは行くぜ

さぁベィビィさぁ歩き出せ
さぁベィビィさぁ歩き出せ

西日のさす丘の上
俺の墓場がある

さぁベィビィさぁ歩き出せ
さぁベィビィ

どこまで行くの
さぁね行けるところまで

ベィビィ さぁ歩き出せ

「時々時間が止まるときがあるんですよ。まわりが全部止まって自分だけになる。ライブのときは、時間止まりますけれど。ふつうのときにもなる。仕事している途中に『あ、また来た』って。
ピタッと止まるんじゃなくて、ふわっと。自分だけになるふわっとそうなって、またふわっともとにもどる。時間にしたらそんなに長くないのかもしれないんですけれど。そう、そのとき『スロー・アンド・スロー』ができた」
「時間が止まり、自分だけになる」。それは我が身が宇宙になり、我が身だけが宇宙に存在することを体感することであるだろう。そしてそのとき、「すべてがゆるされる」ことを悟る。そこに至れば、西方に向って建つ自分の墓が見えてくる。こういう、この世の時間も、生死も越えた次元を体感する人間というのは、この世に誕生したときからもうすでに私たちとは隔てられているのだろうか?それとも私たちには隠されたところで、あるとき化学反応のようなものが起きてそうなるのであろうか?

「十年前、東京に大雪が降ったときがあったでしょう?あのとき十八で、もう東京(コッチ)に出てきてたんですけど。雪が降るとシンシンと静かでしょう?俺、家に帰るところだったんですけど、むこうからリアカーを引いたじいさんが来るんですよ。俺と、そのじいさんしかいなくて、あたりはシンシンと静かで、真っ白で、俺とじいさんの足跡しかない。じいさんとすれちがったとき体に電気が走った。俺、走って家に帰ったんですけど、なぜか涙が出たんですよ」

ひとつの生命としてこの世に宿った瞬間に感電し、それからずうっと放電しつづけて生きていく人たち。その人たちはこの世の地獄に生き、この世の天国に生きる。そして、「言葉にならないもの」で私たちにその地獄と天国をかいま見せる。

  路上でライブはつづき、いくつもの歌が歌われ、涼しい夏の夜が明るいままでふけていく。
ギターがききなれたメロディをゆっくりと奏で、ヴォーカルが「ママ、このバッジをはずしてくれ…」と、ボブ・ディランの「天国の扉」("KNOCK ON THE HEAVEN'S DOOR")を歌いだす。

重厚で、あたたかくて、やわらかい歌声が天国の扉をノックしている。

「ノンノン ノッキンノン ヘヴンズ ドア」

もうそろそろ十一時になる。
歩道にすわって、ガードレールの支柱にもたれて歌を聞いていると、多分一生のうちにそう何度も訪れては来ないであろう、静かで清らかな眠気が訪れてくる。退屈で惨めな一日の終わりに。

「ノンノン ノッキンノン ヘヴンズ ドア」

これが一生の終わりだったらどんなにか美しいことだろう。
失うものはなにもない。背負うものもなにもない。

「ノンノン ノッキンノン ヘヴンズ ドア」

すべてがゆるされる…。

「ノンノン ノッキンノン ヘヴンズ ドア」

「天国の扉」の演奏が終わったとたん、待ちかまえていたらしい警官が一人、人の輪のなかから出てきてライブを中止させた。扉は閉じられ、天国は消えた。
以来そこは、二度と天国の扉がノックされることなく、退屈で惨めな場所として封印されたままである。

「ガレージ・ランド」 Vol.5(1994年9月)