随想:エッセイ

音楽が終わる前に 5
MINAMI "SОLID"

 新宿の高層ビル群、その経済大国の象徴的な大伽藍の威容さは、戦後天皇制と共にもう一つのこの国の権力支配の柱ではないか。そして、この〈都市〉のなりたたせている秘密 について、そこには暗喩が不在していることを発見する。新宿の暗喩とは、甲州街道一番宿内藤新宿、その女郎、女衒たちからの逆行に照らされ、生づいていた地域だ。文学の想 像力は、この暗喩、影りのなかではぐくまれ、都市と共生していた。そして、都市の中の暗喩という光の粒子の一つ一つはうんざりするくらい倦怠な民衆の生活のうぞうむぞうに 他ならない。
このような生きものたちが共生することで成立する都市を〈都市〉はみごとに解体した。
完璧な形姿を誇示させるために、完璧に暗喩を殺した、といい変えても同じだ。この都市 〈都市〉という砂漠には、現象学や記号論といった構造主義がよく似合う。〈都市〉は人工 的な光を照し続けることによって、私たちが眠り、あるいは革命という悪の企てをすべき 暗喩という場所を許さない。

個人がいなくなった
個人がいなくなったおかげで
都市がなくなった
都市がなくなったために
月の光りが窓をひらくこともなくなった
詩も政治も構造主義という構造の中に組み込まれていったから
個人が手を汚すこともなくなった
「都市がなくなった」

東京府下北豊島郡巣鴨村字平松に生まれた田村隆一の最近の詩である。
ならば私は、夜毎に、悪い酒を飲みながら、新宿高層ビル群のほとりを徘徊しているの か。「漂泊の世代」の良質な作家たちの駄目さは、そこからの出脱のために悪戦している ところだ。 〈都市〉が必要ならば、紀州も宇都宮も砂漠に写しだされた蜃気楼にすぎない。高層ビ ル群、この〈都市〉の臍を見つけて、そこに爆弾をしかければ……。いっきょに崩壊して いく姿を、悪酔の末の朦朧とした夢でつむぐ、いまはそれしか出来ない。

上の文は1982年11月に発行された雑誌「同時代批評」6号(土曜美術社発行「詩と思想18号増刊」)「都市を撃つコラム45」のなかの一つ、高野庸一の「都市という砂漠」の終わりの部分である。 
新宿という都市(おんな)は、どこの都市もそうだが、その時代その時代の人間(おとこ)によってつねに蹂躙されつづけてきた。都市は整形手術でその蹂躙のあとを消し、何度も何度も美しく若返って新しい人間の気を引いてきた。「素顔」の都市なんてどこにもありはしないし、都市(おんな)がいつまでも一人の人間(おとこ)だけのものでいたためしなどない。そんな整形美人の新宿を相手にしていながら、「素顔」の新宿に惚れていたんだと思い込み、新宿が自分好みの媚態をみせてくれなくなったと嘆く人間があとを断たなかった。都市にはその肝心の人間がいなくなった。人間がいなくなっても、それでも整形術をくりかえす都市。鏡のなかの自分のためだけに化粧する女にも似た……。

「都市という砂漠」に引用されている田村隆一の詩によれば13年前にすでにそうであった。 では人間はいったいどこにいるのか?田村隆一のいう「個人」はどこにいるのか? 新宿だけでなく、どこの都市にも人間はいない。都市だけでなく、やがてはどこにもいなくなるだろう。 高野庸一が「ここには四季折々の香がないどころか、生きものたちが生息している形跡すらないのであって、ただイルミネーションで仮装されて、最高の現代建築物とその内に文明の技術の先鋭が腸詰められている。すべてのものがそなわっているけれども、人間だけいないという奇妙で巨大な現代の伽藍」と書いてからも、新宿には「奇妙で巨大な現代の伽藍」が増えつづけ、そのなかでも東京都庁の奇妙(きみわる)さは他を完全に圧している。それは、人間がいないだけでなく、この国の権力支配が戦後天皇制とともにその中枢につねにかかえている空洞(ブラックホール)がそびえたっているからにほかならない。

そして、いまはそれと似たような空洞が都市を侵食しはじめている。人間がいなくなり、「このような生きものたちが共生することで成立する都市を〈都市〉はみごとに解体した」あとにきたものは空洞である。 そして、人間自体が空洞化していく時代になった。
ニューヨーク在住のMORRIE(モーリー)が最近リリースしたアルバム「影の饗宴」のなかの「猿の夢」はそういう空洞化していく人間の姿が歌われているように聞こえる。

 『猿の夢』(部分)  

冬がくる
とても永い冬
このままじゃ
猿の夢ばかり

血は叫ぶ
ほしいと叫ぶ
肉躍る
こころ裏切って

あぁ こころは怪物に
すべてを呪う
汚された手を浸す
春の水はない

ジャン・ボードリヤールはその著書「透きとおった悪」(1990年)で人間自身の空洞化をこう書いている。

疎外は終わった。
視線としての他者、鏡としての他者、不透明性としての他者は終わった。
今後は、透きとおった他者たちが絶対的な脅迫者となる。鏡つまり反射する表面として の大いなる他者は、もう存在しない。自意識は虚無のなかに放出される危険にさらされて いる。
―――「同一者の地獄」より

高野庸一は「〈都市〉は人工的な光を照らし続けることによって、私たちが眠り、あるいは革命という悪の企てをすべき暗喩という場所を許さない」と書いているが、ボードリヤールによれば、悪は現代はすっかりそのかたちをを変えて存在していることになる。

 悪は、いたるところに存在する。悪に現代的形態の歪んだ像には(アナモルフォーズ)限りがない。予防衛生、自然の準拠枠の廃絶、暴力の隠蔽、暴力の萌芽とあらゆる呪われた部分の根絶、否定的なものの美容整形手術などが徹底しすぎて、計算された管理体制や善の言説としかかかわろうとしない社会、悪について語る可能性がもはや存在しない社会において、悪はウィルス的なあらゆる、変身して(スタモルフォーズ)、われわれにつきまとう。
―――「悪はどこへいったのか?」より

高野庸一は「都市という砂漠」を「高層ビル群、この〈都市〉の臍を見つけて、そこに爆弾をしかければ……。いっきょに崩壊していく姿を、悪酔の末の朦朧とした夢でつむぐ、いまはそれしか出来 ない」という文で終えているが、空洞化した都市にはもはや臍は存在はしないだろうし、そこに爆弾をしかけても「いっきょに崩壊」するのはきっと「夢」のほうだろう。

 ボードリヤールは現代の暴力についても言及している。

 われわれの暴力、われわれのハイパーモダンな時代がもたらす暴力、それは恐怖そのものである。それはシミュラークルとしての暴力であり、情念からよりも、テレビの画面から出現する、イメージと同じ性質をもつ暴力である。暴力は画面の空白のうちに、画面が精神の宇宙に開く小さな穴をつうじて潜在的に存在している。テレビカメラがその場にあることが、かえって暴力的な出来事をひき起こす可能性が強いので、テレビに映されている公共の場所には行かないほうがよいといっても過言ではないのだ。
テロリズムの暴力には、いたるところでメディアの歳差〔(プレセッション)=先行〕が生じている。テロリズムの暴力がとくに現代的な形態をあたえているのは、この現象だ。
テロリズムはこの種の暴力にひとびとが割りあてようとする「客観的」原因より、はるかに現代的なのである。政治的、社会学的、心理学的等々の原因は、どれをとっても出来事の規模と深さに見合ったものではない。
―――「テロリズムの鏡」より


 1995年4月15日。新宿はまさしく「テレビの画面から出現」してきた「恐怖そのもの」という暴力に蹂躙された。表だっては何も起こらないのにたしかに戦慄(おそろ)しい暴力が存在した。これは、ボードリヤールの書いているとおりの「イメージと同じ性質をもつ」、「現代的な」テロリズムによって引き起こされた出来事であり、同じく「テロリズムの鏡」に書かれている「それはわれわれの社会生活の非理想的なエピソードなどではない。十全の論理性をともなって、空白にむかって加速する出来事」なのであった。

1995年2月19日。新宿紀伊国屋ホールで開かれたジャン・ボードリヤール来日記念講演、対談「ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る」でボードリヤールの講演を聞いて、現代の日本だけでなく世界全体が均質化にむかっていることをあらためて実感した。
ボードリヤールは「われわれは地球から打ち上げられた宇宙船のなかの塵(ゴミ)のようなものになっていく」と語ったが、均質でないもの=独自なもの、型(タイプ)ではなくて個であるものを欲しがっている私は、たとえ塵のような存在になってもいいから真っ先にその宇宙船に乗り込んで未知の旅にどんどん乗り出していく、というようなことはできそうにもないから、いちばん最後まで乗船をみあわせるほかなさそうだ。

 彼女は新宿の線路下の東口と西口をつなぐ通路で、ときどき夜おそく一人でギターを弾きながら歌っている。7年同じ場所で歌っているという。はじめて聴いたのは3年ほど前。その通路を東口の方  へぬける途中だった。ギターを持って立っていた彼女の前を通りすぎて5メートルくらい行ったときジャーンというギターの音が聞こえてきて、そのとたんに足がとまった。そのままそこで壁にもたれて歌を聴きはじめた。激しく熱いギターと主張のはっきりした歌にすぐひきつけられた。5メートルはなれている彼女と私の前をひっきりなしにいろいろな人たちが通りすぎてゆく。前に置かれたギターケースに小銭を投げ入れていく人もいる。私は一曲終わるたびに拍手をした。拍手の音が通路にこだました。その頃、ゆううつにおおわれていた私の心に3曲の歌のなかの「生きることから逃げられない」という歌詞がまっすぐにしみこんできた。その歌が終わった後お金をギターケースに入れ、「いい歌をありがとう」といってその場を離れた。
 それから何回か、偶然に彼女の歌を聴くことはあったが、ゆっくり聴くことができたのはつい最近のことだった。壁を背に通路にすわりこんで聴いた。最初から最後まで聴いていた観客は私一人。マイクもスピーカーもなく、肉声で歌を歌い、生音でギターを弾く。彼女は街も人も空洞化、均質化していくなかで、独自性をもったかけがえのない「個人」であった。激しくギターをかきならし、足を踏み鳴らし、「SOLID」から歌いだした彼女は、自分をしっかり見据え、ガンとしてそこに存在する「他者」であった。

SOLID    ミナミ

通り過ぎる氷の仮面から
注がれる視線に晒されて
世界中じゃたった一人きり
生きることからは逃れられない
虚勢を張った魂は
弱さなど見せまいと構えているのね

毎日がちっぽけな錯覚の連続
自ら築いた壁の中お前は王様さ
1oの誤差も無く動き続けているこの街で
過去も未来もあったもんじゃない、今だけさ

魂を売った人々の間じゃ
でまかせの愛が取引きされていく
心の隙間を埋め会うように
今時代は暮れようとしている

言葉にするのをためらっている間に
生まれ変わる瞬間を見逃してしまうわ

ぶちまけてよ、今ここであたしの全てに
感じる前に負けたなど時代遅れの捨て台詞
行き着く所までと信じたならそれが正義
その時のあんたの姿はきっと美しい

この世の中に生きてる事だけで
baby、あたし達多分 共犯者

「ガレージ・ランド」Vol.6(1995年9月)