1996年7月末、瀬沼さんから詩集『凍えた耳』が送られてきた。
「詩集の裏本のようなものになってしまいました」と手紙には書かれていたけれど、『凍えた耳』のいちばん最初の『ホタル』という詩の、いちばん最初の、
どこから手をつけたらいいのかわからなかった
整理しなければならないものが
たくさんあるような気がするのに
すっかり自信がなくなって
しゃがみこんでしまった
というところを、読んだとたんに、裏本とか表本とか、そういうことは、頭から消えた。
詩でなくては伝えられないものがまっすぐに伝わってくる。
『凍えた耳』は、ふるえて読んだ。泣いて読んだ。
言葉は沈黙におしつぶされ、「これが詩だ!」と心が叫んだ。
彼方の時間からの使者
いや、痴れ者のこの路上こそが生み出したのか
風鈴
廃墟のように澄みきった風鈴よ
こわれたわたしの胸の奥で
リンリン、リンリンと鳴りひびけよ
(『夜の風鈴』より)もう五時をまわっていた。少女たちの姿はすでになかった。地上では濁った朝
がはじまろうとしていた。夜も、昼も、鎮まることのない街でこの薄明の時刻
がもっとも寂しいものなのかもしれない。むき出しにされた路上の肌が深い嘆
声をもらすようだ。捻じまがった憂暗の、滅裂の、放心の嘆声。
(『ジェノサイドの街』より)凍えた耳に、アルト・サックスの音色を聞いたような気がした。
アルバート・アイラー
彼ならこの場所にきてくれるように思えた。彼はふたたびサックスに向かった。音は沈むようにゆるやかになり、まるでサ
―カスのジンタのように深い音色をかなではじめた。
それは鎮魂の音楽だった。
なくなった人を悼むことはすぐに嘘っぽく偽善的なものに堕ちてしまう。
でも、アイラーは彼等に向けて吹こうとしていた。彼自身が殺されることを選
んだ人だからだ。
(『ゴースト』より)
耳を凍えさせる音ばかりが聴こえてくる現実生活のなかで、路上という定点に立ってじっと耳をすませ、凍えを解く音、凍えを解く音楽を聴きつづけている瀬沼さんの姿が見えた。
夜の街の風鈴の音、薄明の街の路上の肌の嘆声、アルバート・アイラーのアルト・サックスの音色……。
詩のなかから、それらが聴こえてきた。
『ゴースト』のなかで、瀬沼さんは、
「なくなった人を悼むことはすぐに嘘っぽく偽善的なものに堕ちてしまう。」
と書いているけれど、私は、瀬沼さんを亡くなった人として悼むことができない。
瀬沼さんは、私にとって生前もその詩のなかで生きている人だったから、心のなかで生きている人だったから。
凍えを解く音楽を聴きつづけ、凍えを解く詩を書きつづけた瀬沼さんの勇敢なる生涯。
私は、これからもずっとそういう音楽を聴きつづけていくだろう。
そうすれば、凍えるような路上を歩きつづけていけるだろう。
今年の1月16日、新宿のパワーステーションでのストリートビーツのライブで『親愛なる者』という歌を聴いた。
親愛なるあなたにさよならは言わない
あなたを思う祈りは消えたりしないから
この歌を聴いて、瀬沼さんのことを強くおもった。
「音楽や書くことは本来ひっそりとした心の暗所から生れてくるものなのではないだろうか」
これは1933年12月に出した『同じ瞳をしていた―――路上の友(ストリート・ビーツ)への手紙』という小冊子に瀬沼さんが寄稿して下さった『路上からの手紙へ』の冒頭の部分である。
1991年12月28日の川崎のクラブ・チッタでのライブと、その翌年に出た「BEATNIK ROCKER/THE STSREET BEATS
BEST SELECTION 1988―1991」というアルバムをもとに書かれた『路上からの手紙へ』は、ストリートビーツという若いバンド、とくにヴォーカルのOKIへの深い共感と、自分の内面への深い探求に裏打ちされた、瀬沼さん独自の音楽批評である。
瀬沼さんは、クラブ・チッタでのライブを、こう評している。
「パワフルなドラムとベースのうねりの奥でOKIの孤立の影は消え、鋭く尖りながらもあたたかいバイヴレーションを与えてくれた。そこにはヒーローではない、わたしたちに裸の心を向ける一つの逞しいバンドがいた。(略)わたしたちはあの川崎チッタという空間で稀有の時間を生きていたと思う」
そして、
「最近、ロックにふれることが辛くなることがある。弾まない渇いた心に気がつくからだ。ストリート・ビーツのような美しいバンドの音楽を聞くことは、わたしのようにもうすぐ四十代を迎える者には痛みをともなうことも多い」
と書いているけれども、最後は『路上からの手紙』という歌を引用し、
「『曲がりくねった道を/誰もが歩き続ける/俺はここで歌うよ/今夜おまえにバラッドを 路上からの手紙を/路上からの手紙をおまえに……』ストリート・ビーツは今日も路上からの手紙をわたしに届けてくれる。それは生き生きとしてあたたかい。彼等にどのような返事を書けばよいのだろう。心の顔も、背中の荷物も違うが、同じ時代の路上を生きる者として、この親愛なる友人たちの音楽にふれ続けていきたいと思う」
と、あたたかく『路上からの手紙へ』を終えている。
瀬沼さんの詩もみんな路上からの手紙であり、「生き生きとしてあたたかい」。
瀬沼さんも、ストリート・ビーツのOKIも、私にとって「親愛なる友人」であり、OKIが『親愛なる者』で、「変わらぬものだってあるさ」、と歌っているとおり、それは決して変わることはない。
「胸を焦がす熱い思い」も「やまない情熱」も決してなくなりはしない。
『親愛なる者』(終りの部分)
胸を焦がす熱い思いだとか
やまない情熱だとか
人はいつか失くすと言うけれど
変わらぬものだってあるさあなたを残し見知らぬ街へと
長い旅を続ける
待っている人がいる 呼ぶ声が響く
俺達は光の中に飛び出す
親愛なるあなたにさようならは言わない
あなたを思う祈りは消えたりしないから
親愛なるあなたにさよならは言わない
あなたがくれたすべては消えたりしないから
瀬沼さんに最後にお会いしたのが1996年の何月何日だったのか、はっきりしないけれど、初めてお会いしたのは、1991年4月2日、とはっきりしている。
大宮のソニック・シティのブルーハーツのライブで、岡田幸文さんに瀬沼さんを紹介された。
その帰り、シオンの話になって、瀬沼さんの「『ガレージ・ランド』にシオンを書いてください」 というお誘いに、「よろこんで」と返事をした。新宿の中央口近くの路上でだった。
そして、『音楽が終わる前に』がはじまった。
『音楽が終わる前に』というタイトルは瀬沼さんがつけてくださったもの。「ドアーズのジム・モリソンの歌をもじったものです」といわれた。
ライブハウスによくご一緒した、というより、私が熱中しているバンドのライブに強引に誘ったと言ったほうがあたっているかもしれないけれど。
シオン、ストリートビーツ、EAT RED MEAT(ex.クールビューティー)、ラストダンス、狂乱、GALLY SLAVES(ex.マンガンズ)、眼球駆楽舞……。
ライブにお誘いしたバンドを気に入ってくださると、とてもうれしかった。
都会の廃墟を感じさせるようなEAT RED MEATが、いちばんお好きだったかもしれない。
『ガレージ・ランド』には毎号書かせてもらえて、自然に、「新宿とロックの詩(歌詞)」がテーマになっていった。
シオン(『ガレージ・ランド』2号)、アクセル・ローズ(同3号)、ラストダンス(同4号)、マンガンズ(同5号)、ミナミ(同6号)、と書いてきて、ここで『音楽が終わる前に』を終わらせてもらおうときめていた。しぼんだ気持ちがどうしてもふくらんでこなくて弱っていたからだ。
1996年5月に、詩を中心に編集された『ガレージ・ランド』7号が送られてきて、8号への原稿依頼も書かれた手紙が同封されていた。
「『音楽が終わる前に』は終わらせてください」という手紙を出しそびれていたときに、7月末に『凍えた耳』が送られてきて、同封の手紙には、やはり原稿依頼が書かれていた。
断るつもりでいたのに『凍えた耳』の感想といっしょに、「次号にはぜひ書かせてください」とすぐに返事を出した。
『凍えた耳』から受けた衝撃はそれくらい大きかった。
『音楽が終わる前に』の6には、その年の2月に下北沢のビルから落下死したギタリスト・広瀬邦彦さんのことを書こうとしたのだけれど、テーマにしていた「新宿」がつかまらず、8月末の締切りが近くなっても原稿は進まなかった。
もうすこし締切りを延ばしてもらう手紙を出そうと思っていた矢先の8月28日、瀬沼さんが交通事故で亡くなられたという電話が青木栄瞳さんからはいった。
瀬沼さんがそのときやりかけていた、『ガレージ・ランド』8号は、翌1997年1月、倉尾勉さんの力で発行された。
瀬沼さんが亡くなられたのに、亡くなった広瀬邦彦さんのことを書くのはためらわれたけれども、倉尾さんが「偶然なのですから」と、励ましてくださったおかげで書き上げることができた。
今回、この『音楽が終わる前に』を書いていて、瀬沼さんとの生前のおつきあいが、たった5年間だとわかっておどろいた。
もっともっと長い間のように思っていた。
直接お会いした回数だって、お話しした量だってそんなに多くないのに・・・。
それはきっと、音楽や詩によって刻まれる時間(とき)が、ゆっくりとしたゆたかなものだからなのにちがいない。
瀬沼さんには、これからも、そうした時間のなかで会うことができる。
瀬沼さんの詩集をひらくことによって。
音楽を聴くことによって。
「ガレージ・ランド」Vol.9(1998年6月)