随想:エッセイ

音楽が終わる前に 6
スコ―ピオンズ "SOUL BEHIND THE FACE"

広瀬邦彦さん、
甲府で開かれた「――28章の青春符―― 広瀬邦彦展 1967〜1996」で、あなたの絵を見ました。あなたが15歳のときに描いた「ゴッホの静物」(1982)を見て、あなたが絵を描いていたことはあなたが亡くなってから初めて知ったことなのに、あなたとゴッホについて話しができたかもしれなかったのに、とつい思ってしまいました。

あなたは、絵が描けるから絵を描いていたのではないことがすぐにわかりました。手応えのあるもの、リアルなものをつかみたくて、自分のなかからわきあがってくるものに没頭し、それを解放したくて、それで絵を描いていたのですね? ゴッホもそんなふうに絵を描いて、絵を描くことで(もしかしたら絵を描いているときだけ)、「生きている」という輝きを実感できた画家だと思います。
でも、あなたはそれを求めても絵を描くことではそれができない、と思っていたのではありませんか。亡くなるほんのすこし前に、「音楽をやるのは楽しいけれど、絵を描くのは苦しい」と、お母様に電話でお話しになったのはそういうことだったのでしょう?
あなたが、1994年以降に描いた絵のなかで「Companionship」という英語題のつけられた「二人連れ」(1994)だけをのぞいて、全部の絵に共通して感じられたのは、はかなさ、弱々しさ、でした。自分をぶつけきらず、いつもためらいがあったと思うのです。
「二人連れ」は他の絵にはないのびやかさと、明るさが感じられました。あなたの絵の先生だった故・三枝茂雄先生の絵から題材をとったということ、そして、あなたが「邦彦」とサインしたのはこの絵だけで、あとの絵には一枚もサインをしなかったことをお母様からうかがいましたが、「二人連れ」を描いたときは、もしかしたら、あなたは輝きを実感していたのかもしれませんね。

1989年の夏、私はアムステルダムで開かれた「ゴッホ没後100年展」を見に行きました。この展覧会でゴッホの絵を一度にたくさん見ることができたのですが、行く前にいちばん見たいと思っていた「鳥の群れ飛ぶ麦畑」よりも「アイリス」という絵にいちばん感動しました。
「鳥の群れ飛ぶ麦畑」は、ゴッホがピストル自殺をする直前に描いたとされていて、画集などには「死を予感していたような不吉な絵」と解説がされていたりするのですが、私には「不吉な絵」ではなくて、「すっきりした絵」に見えました。あの絵を描いていたときゴッホは「死を予感していた」のではなくて、「生きるのはもういい」と「死を決心していた」にちがいないのです。
それとは反対に「アイリス」を描いていたときのゴッホは「生きよう」という希望をもっていたのです、きっと。そう思いました。「アイリス」には、ゴッホにも幸せなときがあったのだ、ということが感じられて、涙があふれてとまりませんでした。
あなたの描いた「二人連れ」にはそれと同じようなものを感じましたが、あとの絵はみんなはかなくて、弱々しいですよね。
茶色のセーターの袖口から出された手のひらに、大きく一齧りしたあとの赤い林檎がのっている「林檎と私」(1995)と題された絵には、林檎に向けられているはずのあなたの視線がはかなく、弱々しく紙のなかに漂っていて、あなたの「この林檎はいったいなんなんだろう?」ってつぶやきが聞こえてくるようでした。
紫色や灰色のけむりがたちこめているような背景に、エレキギターとエレキベースが1本づつたがいによりかかるように立てかけられている「ギター」(水彩画)(1995)という絵にも、あなたのはかない、弱々しい視線が感じられました。このギターを弾くはずのあなたよりもギターのほうが強く主張している……。
あなたは「音楽をやるのは楽しいけれど、絵を描くのは苦しい」と言われたそうですが、私が絵を見て知ることができたあなたと、それまでバンドを通してだけ知っていたあなたとちがいはありませんでした。
あなたはステージでもはかない感じがしましたし、けっして力強く自分を主張しているようには見えませんでした。あなたがギターを弾いていたTHE WAIATSというバンドのライブに通うようになったのは5年前の1991年でした。THE WAIATSにしかないものにひきつけられてこの年だけで20回ライブに行きました。HUCK FINNという名古屋のちいさなライブハウスにまで追いかけていきましたよね。

THE WAIATSはほんとうに独特なバンドでした。

「いいライブって、たいてい時間が止まっているって感じるし、おわったあとで、長い時間がたったように感じる。たとえ演奏時間はみじかくても。だけど、この日、THE WAIATSをきいていて感じたのは、時間がものすごい速さで過ぎていっているということだった。ものすごい速さ、歌と演奏に時間がどんどんひきよせられていく……。ステージの上にいるTHE WAIATSの4人はいまの瞬間は若くて、生きているんだけど、明日は骸骨になって荒涼としたところに横たわっている。それが見えた。死、という抽象的なものを感じたんじゃなくて、骸骨が見えたのだ。どうしてなんだろう? みごとなロックンロールで、ワイルドで、パワフルで、パンクで、ロマンチックなのに……。どうして生きる熱みたいなものを感じないんだろう? この『どうして?』がものすごく私をTHE WAIATSにひきつける。荒涼としたところに横たわっている骸骨が見えて、『どうして?』をくり返していたら、最後の歌がそういう荒涼としたところを思わせるもので『明日(あす)は屍(しかばね)』という歌詞があるんだもの射ぬかれちゃったよ」
(1991・4・13のライブの感想から)

「かなり広いライブハウスのすみずみまで音はいきわたっているのに、それがステージからきいている方にむかってくる感じじゃない。何かがステージのうしろにすいこまれていく。ものすごくひきつけられているのに、そう感じられて仕方がない。4人はもちろんこっちを向いているんだけれど、私にはうしろ向きで演奏しているみたいに感じられる。うしろ向きに時間が疾走していく。THE WAIATSって写真でいうと、陰画(ネガ)かもしれない。歌の内容がネガティブというんじゃない、けっこう攻撃的(ポジティブ)なのに、あの4人がステージで演奏するとネガになる。こういうふうに、うしろ向きの時間の疾走を感じさせるのはTHE WAIATSだけ。1年前のライブで『歌をとおして沈黙が伝わってくる』と感じたのも、4月13日のライブで『生きる熱みたいなものを感じない』と感じたのも同じものかもしれない。THE WAIATSのよかったライブってきっとネガなものなのだ。不思議な感動」
(1991・5・18のライブの感想から)

こうしてずいぶん前の感想を書き写してみてわかったことは、THE WAIATSの「ネガなもの」はあなたのギターから出されていたものが大きかったのではなかったか、ということです。あなたのギターは調子がはずれているように聞こえたことが多かったことや、弦がよく切れていたということは印象に残っているのですけれど、それがあなたを感じるてがかりだったはずなのに、私は歌とTHE WAIATS全体の音を聴くことにばかり集中して、あなたのギターの音だけを聴きとろうとしたことがなかった……。
「音楽をやるのは楽し」かったのだとすれば、私にははかなくて弱々しそうに思えた裏側の「生きる輝きがほしい」という叫びが聴けたはずでした。
私が知らなかった、私が見たことがなかったあなたが「自画像」(1995)に描かれていました。この絵は「――28章の青春符―― 広瀬邦彦展 1967〜1996」のなかでいちばん強く心をうたれた絵でした。あなたはあんなふうに見える自分と向かい合っていたのですね。私が見ていたあなたは全然あんなふうじゃなかった……。私が見ていたあなたに全然似ていない……。私が見ていたあなたの裏側に「自画像」に描かれたあなたがいたのに、私には見えなかった……。
展覧会の会場入口に飾られた、すこし焦点のぼやけたあなたの写真。左手にスケッチブックをかかえ、こちらを見てかすかにほほ笑んでいるあなたの写真。あれを初めて見たとき、はっと胸をつかれて思わず、「広瀬さん、どうしてそんなに老けた顔になったの? まだ28歳だというのに。以前だって決して若々しかったわけではないけれど……。生きる苦しさといつも向き合っていたからなのね」と心のなかであなたに語りかけてしまったほどでした。
たぶんこの写真の二年くらい前じゃなかったでしょうか、急ぎ足で歩いていたあなたと新宿の地下街で偶然に出会ったのは。「いまバンドやっているんですか?」と訊くと、ぽつんとひとこと「やってないんです」といっただけで、先を急いでいるようだったので、「また始めたら聴きにいきますから。楽しみに待っていますから」といって別れたあの時があなたに会った最後だったと思います。
THE WAIATSをやめて、つぎに始めたSNAPPERS ALLIGATORというバンドもなくなって、絵を描いていた頃だったのでしょうね。でも、やっぱり、バンドでギターを弾きたかったのですね。
「――28章の青春符―― 広瀬邦彦展 1967〜1996」と同時に「広瀬邦彦追悼ライブ」も開かれて、あなたのライブの写真がスライドで何枚も映し出され、あなたの最後の演奏のテープが流されました。バンドをまた始めたかったのでしょうか、去年何人かでスタジオに入ったときに録音したんだそうですね。
その日(1995年5月28日)の日記には、「三時にケン、ナオちゃんが家に来てミーティング。七時半までのんでスタジオに入った。スタジオは『最高』『お前がいなくちゃ』『エネルゲン』『ソテシュブルース』をやった。とくに『エネルゲン』は始めてスタジオに入ったとは思えないほどだった。その後みんなでキムリでのんだ」と書いてあったと、お母様がお手紙に書いて下さいました。あなたはその後日記を書くことなく、白いページを残したまま、その9ヵ月後に下北沢のビルの4階から落下して亡くなった……。

広瀬さんの最後の演奏のテープがおわると、すぐにTHE WAIATSの演奏が始まった。THE WAIATSもすでに解散していたのだが、別のギターの人をいれて、もとのメンバーがこの追悼ライブのために集まってTHE WAIATSをやったのだが、心がこもっていてすばらしいものだった。
広瀬さんの死を悲しむのではなくて、生きているという実感をいっぱいに味わいたいと心からそう思った。だって、広瀬さんが求めていたことはそれだったにちがいないから。
それを求めて絵を描いたし、ギターも弾いた。教会にも行った。
亡くなるすこし前、「神様っているんだね」とお姉様に電話があったという。その日、原宿の教会で牧師のお話を聴いて涙を流していた若い人がいたのを見ていた女性(ひと)がいて、あとでそれが広瀬さんだったことがわかったとお母様が話していられた。
「神様っているんだね」と言えたとき、広瀬さんはきっと自分が生きているという実感をもてたはずだし、輝きのなかにいられたのにちがいない。生きている間にそういう瞬間があって、求めていたものが手にはいって、ほんとうによかった。

追悼ライブがおわって外に出ると、すっかり夜になっていた。にぎやかさの消えたアーケード街を甲府駅まで歩く。
21時8分、指定の席に着くとまもなく「スーパーあずさ16号」は甲府駅を離れ、新宿にむかって走り出した。私の乗った車両には乗客が3、4人、車内アナウンスと車掌の検札がおわると、あとは人声もせず、聞こえてくるのはエアコンのぶーんという音と列車の走る音だけ。窓の外の暗闇がパノラマ・スクリーンのようになって、洸々と明るい、人気(ひとけ)のない車両を映し出していく。
列車の座席にじっと座っていると、涙がこぼれそうになる。座席の背をすこし倒してウォークマンのヘッドホンをはめて、目を閉じる。スコーピオンズのクラウス・マイネの歌声がきこえてくる。

Would you hear my voice if I was always quiet
Would you hold me close if I was in the cold

あ、広瀬さんが歌っている……。

Would you care would you be there for the soul behind the face

soul behind the face……。

それをわかってほしかったのだ、広瀬さんは。

Would you love me for what I am

大切なのは自分らしくある(what I am)ことだ。
他人(そのひと)の裏側にある心(soul behind the face)を感じることだ。

列車が新宿駅に着いた。夜のにぎわいが充満している雑踏のなかを歩きながら、クラウス・マイネの歌う"SOUL BEHIND THE FACE"を聴きつづけた。

「ガレージ・ランド」 Vol.9